まるひろの人

丸広建築は、真面目だけがとりえの工務店です。
忍野の地でコツコツと・・・。
でも、目の前にそびえる富士の山に恥ずかしくない仕事をしてきました。
そんな私たちのこと、聞いてください。

渡邉 廣冶

渡邉 広一

渡邉 洋子

 


 

渡邉 廣冶、語るー

人は遠くから見ている、常に。

昭和43年の冬、結婚と同時に初めて建てた家は自分の家でした。
新居に引越すやいなや、見習い大工たちとの同居生活がスタート。新婚時代も何もなかったですね(笑)。

ここは1959年に発生した伊勢湾台風の被害がとても大きな地域でした。蔵がひっくり返ったり、屋根がふっ飛んだり。だから、昔の人は地震よりも筋交いをきちんと施した風に強い200~300年もつ家を望みました。

「人は遠くから見ている、常に。」が座右の銘でしょうか。きちっとした仕事をしないと世の中の人は見てくれない。
信用を得る為には努力が必要。田舎だから、人間関係やいろんなこと、みーんな分かってしまう。

努力もしたけれど、いつも最後に踏ん張れたのは「お客様に喜ばれる家を建てたい」という熱意だったように思います。

 

 

誠心誠意、努力するのみ

そしてそんな私の仕事をいつも見守ってくれたのが富士山です。
子供の時から、「絵を描きなさい」と言われて描くのは必ず富士山でした。

富士山の景色は本当にいい。

春は春の良さ、夏は夏の良さ。5合目から上は木が植わっていないから、雪のない真夏は紫色に輝きます。朝、晴れた日に見れば晴れ晴れした気分になったものです。でも、一番私を助けてくれたのは仕事始めである朝5時に拝む冬の富士。寒々しいけれど、身が引き締まりました。
「今日もいい仕事をしなくちゃ・・・」と。

平成9年、息子・広一の結婚に伴い、家を新しく建て替え、丸広建築での40年の現役生活にピリオドをうちました。

息子が戻ってくるからには、少しでも身を引かなければという想いでした。まずはこちらが任せないと仕事を覚えることはできないし、責任感も芽生えませんから。どんな仕事もそうですが、自分自身、「その場当たって」でないと覚えられません。

私が残してやれたのは、腕のいい大工たちだけ。

丸広建築はこれからも常に、誠心誠意、努力するのみです。

 


 

渡邉 広一、語るー

建築はとても厳しい仕事

小学生の頃からずっと外交官になることを夢みていました。
建築はとても厳しい仕事です。自分の時間などなく、仕事仕事の毎日を送る父と、辛抱しながら働く住み込みの若い人たちを見て育ちましたから、建築関係の仕事に就きたいとは全く思いませんでした。

そして父も私に「跡を継げ」と一度も言いませんでした。そんな私が、何故今ここに存在するのか。

父も根っからの職人です。

「やりたいことをやればいい。かけられる金は全てかけてやる。でも、けじめはつけろ。できなければ、すっぱり諦めろ。」という言葉と共に東京に送り出してくれました。東京で2年の浪人生活。結果、希望の大学に受かることはありませんでした。そんな私に「普通の大学を出て、普通のサラリーマン。では困る。」と。(笑)
建築の専門学校に通った後、当時丸広建築が依頼していた地元の設計事務所に就職し、建築の現場と設計を学びました。そうこうしている内に、初めて父から言われた「戻って来い!」。きっと息子が地元に帰ってきているのに現場以外の様々な仕事が面倒くさくなったのでしょう。

家に帰れば当然のことながら先輩ばかり。当時、建築業界はとても良い時代で丸広建築も活気にあふれていましたが、自分の心は冷えていました。まず私が最初にしなければならないことは、自分の足場をつくることでした。それは職人たちと対等に話ができて、職人たちに「広一の意見をきいてやろう」と認めてもらうこと。大変でしたね。10年かかりました。

 

親の想いに、私も想いで返したい。

これまでの丸広建築の家づくりは、父が「これがいい」と言えば、すべて父にお任せ、そしてお客様は大満足の家づくりでした。
そんな偉大な家づくり職人の父が育てた素晴らしい大工たちに支えられ、私はお客様と徹底的にお打ち合わせすることを大切に考えた家づくりをもって、丸広建築を継承していきたいと思います。

父が培ってきた伝統を土壌に、日々豊かになる新しい家づくりのあれこれを、お客様のライフスタイルにうまく取り入れられたら最高です。

大学を落ちた時、「よく素直に戻ってきたね」と言われますが、子供に好きなことを好きなだけやらせるということが、どれだけすごいことなのか、心からわかったんです。

親の想いに、私も想いで返したいー。それが私の選んだ人生です。

 

協力業者様の声

電気設備担当
すやま電器 須山 様

 

何がいいって、丸広さんの現場が良いんです!
私たちが現場に入るのは、いよいよ間もなくお家が完成するという頃。お客様の色んな声が聞こえてくる時期なんです。愚痴を聞かされることも多い中、丸広さんの現場では「丸広さんっていいね。」って話しかけられることが、とにかく多いんです。

大工は真面目。手抜きなし!
「仕上がりがいいから」という理由で、やらなくていいことまでやっちゃうんだから(笑)。材料も建て方も、本当にいい。多くの建築現場を見てきたプロの目線で見て、「丸広ならこたえてくれますよ。」と言いたいですね。

この辺りの年配の人は家のこと、木のことにとても「明るい」。そんな人たちに長く支持されていることが何よりの証拠だと思います。

 


 

渡邉 洋子、語るー

主人の人柄と10人の弟子

23歳で渡邉と結婚し、丸広建築の一員となりました。
当時、スカートをはくのが大流行だったのですが、私は建築現場にも出ていましたから、スラックスばかり。4寸角の柱の穴を掘ったり・・・ね。柱は真ん中を持つと楽なんですよ(笑)。
たまにスカートをはくと「おでかけ?」と周りから冷やかされたものです。

私のもうひとつの大きな仕事は、住み込みの子供たちの世話。
み~んな実家まで歩いて1~2分のこの辺りの村の子たち。渡邉の躾はとても厳しくて、ご飯は必ず正座していただきました。きっとみんな座りダコが残っているはず。でもご飯中に仕事の話をすることは一切ない人でした。
3年住み込みで働き、お礼奉公を1年、合計4年間の住み込み生活。36歳で私が体調を崩し、住み込み制度を止めるまで、全部で10人の弟子をきちんと一人前にできたのは、そんな渡邉の人柄があったからだと思います。

主人は原木から材料をみるのがとても上手で、そしてとても我がままな大工でした。仕事がきれたことは1度もありません。真面目すぎるぐらい真面目でした。
1度ミスをすると、10年はつきまといます。人様から信頼を得るには、嘘をつかず、真面目な仕事をするしかないんです。

 

▲“息子たち”と日光へ社員旅行

 

丸広はいつも元気ですよ。

 

20年前に丸広で家を建ててくださったお客様に「ここに来て、奥さんがいつも変わらないのが本当にうれしいよ~。」と言っていただいたことがあります。歳をとって、皺が増えるのは仕方ないけれど、ずっと人間変わらず「丸広は元気ですよ。」って証明することが私の役割、でしょうか。

息子にあげるものは何もありません。ただ丈夫に生んだだけ。
逆に4人の孫と一緒に生活できることにとても感謝しています。

「舅、姑は胡沙(邪魔)にもなるけど、風よけにもなる。」
今となればよくわかる、私が姑から言われた言葉です。私も今、嫁に自信をもってそう言える様、まだまだ元気で頑張らなくっちゃ!